数学観を変容させる数学史の効果

〜中世の代数史を用い,数学を文化として捉えることをねらって〜

筑波大学大学院修士課程教育研究科

伊藤賢二郎

本研究は原典を読み追体験することにより,生徒ひとりひとりが数学を文化として捉えられ数学観が変容するか,またその中で数学を学ぶ意義を見出せるかを明らかにするために行った。

教材として扱ったのは中世の代数史である。生徒になじみ深い方程式の歴史を取り上げた。方程式の発展のつながりが見られる9世紀アラビアの代数と,16世紀ヨーロッパの代数に焦点を当てた。原典「ジャブルとムカーバラ」,「アルスマグナ」はそれぞれギリシア数学,インド数学の影響の下に方程式を扱っており,教材にすることによって代数の発達の過程を理解しやすいと考えた。「ジャブルとムカーバラ」は9世紀アラビアの数学者アル=フワ−リズミーによって著されたもので,現在の一次,二次方程式にあたるものを分類し,それぞれの解法を記している。また二次のものについては,その解法に面積を用いた幾何的な説明を加えている。「アルスマグナ」は16世紀イタリアの数学者ジェロラモ カルダノ(15011576)によって著されたもので,三次方程式を分類し11章から23章で扱っている。それぞれの解法(RegvlaRuleと訳される)と,立体を用いた幾何的な説明(Demonstratio)を与えている。原典を教材化するにあたって,それを忠実に英訳したと判断したものを和訳し,原語のテキスト,その英訳,和訳を授業資料とした。解説は最小限にとどめ,幾何的説明のため立方体の模型を用意した。

二次方程式は既習であり,高次方程式は未習である私立中学校3年生を対象として授業を行った。中世におけるアラビア,ヨーロッパの文化のつながり,そこから生じる数学のつながりを大切に扱った。両者は扱っている方程式の次数こそ異なるが,それぞれインド数学に由来する解法のアルゴリズム,またそれを正当化するために幾何的説明を与えている。後者は証明を重んじたギリシア数学の影響である。授業においてそれぞれの方程式に対するアプローチに焦点を当て追体験させた。授業前後のアンケートで生徒の数学観の変容を探った。

第一の議論は「原典を読み追体験することにより,生徒ひとりひとりが数学を文化として捉えられ数学観が変容するか」である。事前アンケートでは生徒は数学者をほとんど誰も知らない,数学は発展していかないなどと捉えている結果が出た。数学は人間とのかかわり,社会や思想の影響の下に生み出された文化であり,日々発展していくものという視点は持っていなかった。しかし事後アンケートから約半数の生徒は数学観の変容が見られ,歴史を肯定的に捉え,数学を文化として捉える視点をわずかでも持つことができるようになったことがわかった。生徒の関心は数学の概念の形成過程に,数学者の発想に,過去の数学そのものの存在価値など様々なところに向けられた。筆者は第一の議論を,指導者の歴史に対する肯定的な態度,生徒の偏りある見方への配慮・支援の下で数学観を変容させられると結論した。

第二の議論は「生徒ひとりひとりが数学を文化として解釈することを通して数学を学ぶ意義を見出せるか」である。これも生徒の事後の感想から可能であると結論した。事後アンケートからその時代の社会的価値観の制約を受けた数学者の発想・行為が意義あるものと感じ取れた生徒も見られた。そこには数学を学ぶ意欲への結びつきがあった。現在からすれば狭い見方と思われるものも,その時代の文化の中では認められうる。また数学者はその時代の制約を受けながらも,その制約に抗って数学を動かしたのである。このような学問をする上での自由,制約のなさ,また学問をすることの価値を生徒は感じ取ることができたのではないだろうか。これが学問をすることの意欲を刺激したと考える。

 

参考文献

1D.J.Struik(1969) A source book in mathematics,1200-1800Cambrige,Mass:Harvard University Press  pp62-70

【2】伊東俊太郎(1987) 数学の歴史 現代数学はどのようにつくられたか 中世の数学 共立出版pp322-375

 

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